めぐる季節を重ねる、豊かな平屋暮らし
山元町 山﨑ご夫妻
2003年。山﨑凱正(かいしょう)さんと洋子さんご夫妻は、当時暮らしていた神奈川県川崎市から宮城県山元町の浜辺に移りすみました。退職後の終の住処として建てた、屋根が大きな平屋の木の家です。宮城県との縁は、洋子さんがかねてより知り合いだったサカモトとの出会い。当時から、自社の山の木の家を用いて住宅をつくる取組みを進めいていたサカモトの考え方に共感、スタッフとも本音で語り合えるほど意気投合し、自然な流れで宮城への移住を決めました。建築を依頼したい工務店が決まっていて、そこから移住先や土地を決めるというのは、なかなか無いケースかもしれません。お二人は、あっという間に地域に溶け込み、その地に根をおろしていきました。
しかし、そんな穏やかな退職後の暮らしは、2011年3月の東日本大震災で一変することになります。
ご夫妻は、浜辺の家から高台へ避難するという判断が早かったため、ことなきを得ましたが、自宅は大津波に流され、2匹の愛犬も一緒の避難生活が始まりました。
ほどなくして、ストレスを受けている愛犬たちのためにも「できるだけ早く、小さくてもいいから」と、また自分たちの家を持つことを決意します。震災から半年後、2011年8月には、浜辺のエリアから少し内陸側に入った丘陵地に、再びサカモトで新しい家を建てて入居しました。
この記事では、最初の家を「浜の家」、現在の家を「丘の家」と呼び、「家」という環境を舞台にした、これまでのお二人の歩みを紹介していきます。退職後の暮らし方、地域との関わり、暮らしの価値観と住環境との関わりなど、お読みになる皆様には、これからの暮らし方に、何かしらの手がかりがあるのではと思います。
東京からイギリスへ、サカモトとの出会い。そして宮城へ
はじめに、東京都内での生活から宮城へ移住された経緯などを教えていただけますか?
凱正さん「私は特に移住の希望もなくて、生まれも育ちの東京の神田なので、ずっと東京で良かったんですけれど(笑)、洋子が、サカモトさんとは、もう長いお付き合いで、それでサカモトさんで家を建てて宮城に移住するって決めていたんですよ。決めたらもう、すごい勢いで物事を進める人だから(笑)。私はただただ、彼女についてきたようなものです」
洋子さん「凱正(かいしょう)さんは、最初は乗り気じゃなかったけれど、スィッチが入ったのは、東京で老人施設に入所していたおばあちゃんが、こちらで入所する老人施設が決まってからよね」
洋子さんが宮城への移住を考え始めて、候補の1つだった山元町へ夫婦で訪れた時に、町内に老人ホームが新しくできるという情報を得て、その内部の設計や運営方針に共感し(洋子さん曰く、特に凱正さんが感動して)、入所の面接を受けることに。「どうぞすぐに来てください」と入所が決まり、おばあちゃんは、ご夫妻が引っ越す1ヶ月前には山元町の住人になっていたそうです。
移住と家づくりの主導権を握っていた洋子さんは、最初から山元町に決めていたわけではなく、サカモトが持っている土地の1つで、蔵王も候補地に考えていたそうです。
洋子さん「蔵王の土地に案内してもらったのが4月でした。標高1000ぐらいで、天気が悪いと吹雪くらしくて。その時も吹雪になってしまって。そうしたら彼がビビっちゃって(笑)」
凱正さん「ビビっちゃいますよ。それまで一度も人生で吹雪かれたことないから。それに、実際に暮らすとなると、買い物はどこでするのかも気になりますね。山を降りた下にスーパーがあるって言われても、都会暮らしだと必要もないし、ずっと運転していないんです。蔵王暮らしはちょっと無理だな、と」
洋子さん「それで山元町の、浜辺の土地を見に来たら、すぐに、ここにしようって決まりました。海沿いで、青空が広がっていて、景色が素晴らしかった。蔵王で吹雪いていても、こっちは湘南ですから(笑)」
「家づくりはサカモトさんで」と、早くから決めていたという洋子さん。土地が決まる前から、既に、坂元の森の伐採ツアーに参加して、大黒柱になるような木の伐採は済み、乾燥に入っていたそうです。神奈川県川崎市に生まれ首都圏での生活が長い洋子さん、宮城の会社サカモトと、どんな出会いがあったのでしょうか? その問いに、洋子さんは「それがね、ヨーロッパなのよ」と笑顔で教えてくれました。
さかのぼること、40年以上前、商事会社に勤務していた凱正さんが1981年からイギリス駐在となり、ふたりはロンドンで暮らしていました。洋子さんは、5年間の滞在中に、日本人の駐在家族の小さな社会にとどまることなく、積極的に現地の人たちと交流しながら英語を学び続けていました。1986年に帰国して「またヨーロッパに行きたい」と、添乗員の講習を受け、資格を取り、添乗員の派遣会社に登録をして仕事を受けるようになりました。洋子さん、45歳の時の素晴らしい挑戦でした。すぐに仕事が来るようになり、サカモトが社員旅行として行ったヨーロッパ研修ツアーで、その添乗員を担当したのが洋子さんでした。もともと、引越しが好きで、首都圏の中でも2、3年の周期で引越しを繰り返していた洋子さんは、歳を重ねるうちに次第に田舎暮らしに関心を寄せるようになっていたそうです。そんな時期に、宮城県の柴田町で、地域の資源と地域の未来を大切にしながら木の家づくりを進めているサカモトと出会いました。「あの出会いがなかったら、宮城には移住していなかったと思います」
大型マンションから、海辺の小さな平屋へ。
宮城に移住する前は、川崎市の、700戸も入居する大型マンションに住んでいたというお二人です。
凱正さん「そこは、うちとしては初めて長く住んだ家で、15年住んでいたんです。だから、私は当然そこが終の住処だと思っていたんですけどね」
洋子さん「私は、なんだか嫌だなあと思っていたんです。彼の会社が作ったマンションに住んで、会社からお給料もらって、彼の会社が作った近くのスーパーへ買い物に行って・・・、なんのことはない、ただお金が回っているだけで、なんだか牧場の牛になった気分だって(笑)彼には言っていたんです」
退職後は「こんな暮らしをしたい」と特に希望はなかったという凱正さんも、次第に洋子さんが語る、田舎暮らし、宮城移住のプランに気持ちを寄せていきました。
洋子さん「私がイメージしていたのは、二人暮らしに十分で、小ぶりだけど大屋根で、ロフトもあるようなバンガローハウス。でも、彼は、そう伝えてもイメージがわかないって言うんです。じゃあ、パースへ行ってみようって、二人でパースへ。添乗員として行ったことはなかったけど、テレビ番組で見て、家づくりの参考にしたい街並みが気になっていたんです」
凱正さん「オーストラリアのパースです。連れて行かれたはいいけど、カンガルーを見にいくのでもなく、観光地にも行かず、毎日毎日、D.I.Yの店ばっかりに連れて行かれて(笑)」
洋子さん「あら街並みも見にいきましたよ。パースは少し中心地から離れると、カントリーサイドの生活様式の家。最低300坪の敷地に建っているのがほとんど平屋。欧米での家は、最初はアパートからスタートするんです。子どもができると、一戸建てを買えると一戸建て。ワンベッドルーム、スリーベッドみたいに増えていく。子どもはみんな巣立っていきますから、巣立つと今度は夫婦で平屋に住む。子育て時代の家には、また次の世代に入ってもらい、自分たちは移り住んでいく。だから老年層の人がたくさん住んでいる住宅地は、ほとんどバンガローハウス。大邸宅は無いですね。日本では、立派なお家を頑張って作って、そこに定住する考えが主流ですよね。小さなお家に移り住んだら、あら、どうしちゃったの?という目で見られたりしますよね」
その時の状況に合わせて、家を移り住む。そんな考えもあって、バンガローハウスをイメージした希望を、サカモトの担当者にも伝えて、家づくりが始ったんですね。
洋子さん「そうです、そうです。でも最初はサカモトさんにも反対されました。今までの日本には無いような希望や提案ばっかりだったみたいで、困っちゃったのかしら。でもまあ、いろいろ希望を聞いてくれて、最終的には、初めの考えより少し大きな家になってしまいましたね」
最初の家づくりで、特に印象的だったことはありますか?
洋子さん「やっぱり伐採ツアーですよね。木の家がいいなと思っていた私にとって、植林から木を活用するところまで、とても熱心なことに感激したし、大きく育った木を切って倒すところを間近で見学できた体験は素晴らしかった」
凱正さん「サカモトさんの大黒柱伐採ツアーが立ち上がって、私たちは2番目のお客さんだったみたいです。うちの時は、ヒノキを3本切っていただいたんですが、チェーンソーが入って、倒れる始める時は、すーっという感じで倒れていくんです。そして地面に倒れる時は、ばーん!という音が響き渡って。花火がひとつ上がった時くらいの迫力ある音・・・」
洋子さん「すーっと倒れていく、というのは、本当にそうで、サカモトの人は、こちらの方角にこう倒せば、他の木の枝に当たらずに、そのまま落ちるとか、まわりをよく見てやってらっしゃいます。だから倒れていく時に、周りの木の枝に当たるバリバリバリなんて音はしないわけです。プロですよね、すごいです」
大津波にも耐えた、ヒノキの柱
樹齢80年のヒノキ。その年月の重みを伝える「ばーん!」という音は、ふわりと広がったヒノキの香りとともに、おふたりの記憶にしっかりと刻まれています。2003年に完成した家の中で、「再会」した時の印象はどうだったのでしょうか。
洋子さん「最初はびっくりしましたよね、あれがこんなになるのかというぐらいきれいになっていましたからね。それで、あの3本のヒノキは、見事に無節だったのよね。節がない」
凱正さん「太いだけではなく本当に素晴らしい木だった。流されなかったんです、震災の津波でも・・・」
東日本大震災で山元町も大きな被害を受けました。当時、上空から撮影された航空写真では、近隣の家全てが津波で流され跡形も無くなっているなか、山﨑家の屋根だけが写っていたそうです。ヒノキで作られた柱は、大津波にも耐え、壁や家財道具が流される中、しっかりと屋根を支えて残っていたといいます。
浜の家の写真は、お二人の大切な宝物。
写真を見ながらさまざまな思い出が蘇り、お話はつきません。
洋子さん「本当にいい家でした。ロフトは10畳くらいで感じが良かったし、北側には、外の景色が絵のように見えるような大きな窓をつくってもらって・・」
凱正さん「でも全部流されちゃった。山元町も亡くなった方も多くて大変なことになってね」
洋子さん「うちは、初めは様子を見ようかとも思ったけれど、最初の大きな揺れの後、テレビをつけたら津波警報が大津波警報に変わっていたから、すぐに逃げようって、車で高台に避難して助かりました」
避難生活は、ジャックラッセルテリアの愛犬、ラックとクーシーも一緒でした。一緒に助かったという安堵感はあるものの、ペットと一緒では大人数の避難所で過ごすわけにもいきません。体育館の駐車場に停めた車の中で過ごす中で、ラックとクーシーのストレスも溜まり喧嘩も始まり、それは大変な避難生活のスタートだったそうです。
ほどなくして高台に住む方から「うちに来ませんか?」と声をかけてもらい、10日間ほど、お世話になりました。関東地方から移住してきた山﨑さん夫妻は、こっちに親戚もいないでしょう、と、気にかけてくださった方たちでした。
サカモトの担当者も山﨑さんの安否確認に何度も電話を入れていたそうですが、携帯電話は全く繋がらず、数日して連絡が取れ、ようやく遮断されていた道路もつながった時だったので、山元町まで来てくれて一緒に家があった浜を見にいきました。
洋子さん「彼は、開口一番、山﨑さん、ここは住めない土地になりますよって。阿武隈の大水害を体験していた人だし、目の前の現実にやっぱりそうか、と・・」
お二人が暮らしていた山元町花釜地区 2021年1月の風景。
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凱正さん「浜の地域は、その土地で800年続く家、350年続く家が多くて、何も知らずに移り住んだんですが、奥州藤原氏が、塩田の開発に送り込んだ武士の末裔が住んだ、歴史ある土地なんです。土地も肥沃で、砂鉄も出たりして、豊かな土地なんですよね。」
そういう歴史ある土地柄か浜の人の気質か集落の人たちは皆おおらかで、洋子さんも、持ち前の好奇心の旺盛さと明るさで地域に溶け込み、凱正さんは、パソコンのスキルで、地域の自治会や団体などの運営に携わる方たちを中心にとても頼りにされるようになっていました。洋子さんは、遊びにきた都内のシェフから「こんな野菜をつくって送ってくれない?」という依頼がきっかけで、西洋野菜のリーキやビーツ、それからズッキーニ やアーティチョークなどを畑で作るようになりました。
80年も生きたヒノキの生命を受け取り、築いた家。8年かけて築いてきた浜の土地での暮らしや、地域の人々との繋がり。
形あるものだけではなく、お二人が築いてきた大切な繋がりも流されてしまいました。これからの暮らしを、また新たにつくっていかなければなりません。お二人は、避難所で、率先して、救援物資の仕分けや炊き出しの手伝いなども精力的に関わりながら、二匹の犬と一緒に車で過ごす生活に、人間も犬も限界を感じ始め、サカモトとアパート契約の相談を始めました。
洋子さん「犬や猫も一緒に住めるアパートって、なかなか無いんです。ペットは実家に預けて、自分たちだけ避難所からアパートへ移った人も多かったと思います。うちの場合は、サカモトさんがなんとか手配してくれて、大家さんも、もう目をつぶります!と言ってくれたみたい。本当に運が良かった」
凱正さん「アパートに入って落ち着いたら、次は家を建てようって、土地探しに動き始めました。浜のエリアは住めない土地になるというし、犬たちと一緒にいつまでもアパートにいるわけにもいかないし。決断は早かったです。洋子が、前に選挙のウグイス嬢をやっていて、町内中まわっていたから詳しかったんです。それで・・・」
洋子さん「それで、ちょっと上ったところに、サカモトさんが仲介している宅地があったことを思い出して、2区画を買いました。彼は1区画でいいっていう考えだったけれど、土地も安い場所だったのと、新しい拠点を作るなら、浜の家の時のように畑もやって楽しめるところでないと意味がないと思って」
浜の家から丘の家へ。
そうして、「丘の家」に引っ越したのは、2011 年8月末のことでした。大震災の影響で、仙南の柴田町に拠点を置くサカモトに入る部材も、全てストップしている状態。山﨑ご夫妻からの依頼に「かろうじて1棟分の在庫があるので、それでできる範囲で」と即座に応じてくれたそうです。
洋子さん「とにかく、犬たちと一緒に落ち着いて住めればいいわけですから、ユニットバスがどうの、壁紙がどうのと、希望も言っていられないですからね」
凱正さん「浜の家は、最後の家だと思って建てていたわけですから、当然、資金も厳しいんです。家はできても、家財道具がない。服も無い。でも、これだけはどうしても必要と買い求めたのが、このテーブルですよ」
アパート暮らしを始めるときに、2000円で卓袱台を買って、それで食事をしていたそうですが、犬たちにしれみれば、浜の家のダイニングテーブルと違って、洋子さん曰く「わあ、届くところに、ご飯がある!」とばかりに、人間の食事の度に大興奮状態。
凱正さん「どちらかが食べて、どちらかが犬たちを押さえていないといけなくてね。だから、新しい家が建ったら、真っ先にダイニングテーブルを買いました」
凱正さんの東京の同級生が、仲間に呼びかけて支援金を集めて送ってくれ、それでテーブルをはじめ、電化製品や家具を購入することができました。布団は、知人が知り合いの家で不要になっていたものを手配してくれました。「いろいろなことがあったけれど、いろいろな人にとても世話になって、ここに住まわせてもらったこともそうですが、本当にまた田舎暮らしができて、感謝ですね」と、二人は口をそろえます。
洋子さん「この数年、都会から田舎へ移住しましょう、という自治体の呼びかけや、実際に、定年後に田舎暮らしを始める人も増えていますよね。私たちが宮城への移住を考え始めた20年までは、まわりにもそんな人はほとんどいなくて・・・、この前、サカモトの方からは、山﨑さんたちは先駆けですねと言われました。都会と田舎では、人の考え方も違うし、難しいこともあるけれど、それを上回る良さが、山ほどありますからね」
田舎暮らしの第2の人生、2番目の家となった「丘の家」は、広いデッキが特徴的です。
凱正さん「幅が広いでしょ。最初は90cmくらいの予定だったんです。デッキは最後にできるから、家の完成間近になって来てみて、広さにびっくりしましたね」
洋子さん「作る前は、90cmとは言ったものの、それがどのくらいの空間になるのか、私たちはわからないんですよね。サカモトさんの方から2mを提案されて、在庫の部材でできるならありがたいし、その辺りはプロの感覚にお任せした方が良いと思ってお願いしました」
住み始めて、お二人はこのデッキが一番気に入っているそうです。お客様があると、デッキで一緒にお茶が飲めるし、デッキから家の中へ気楽に入ってもらえます。春先から11月初旬くらいまでは、朝食も昼食も、そして夕食もデッキで食べることが多いそうです。
デッキからは、お二人で手入れされている庭が見渡せ、庭は、洋子さんが浜の家時代から時間をかけて取り組んでいる野菜づくりの畑へとつながります。
畑は、端正に畝立てされています。訪問したのは1月の中旬で、ネギや白菜の冬野菜が並んでいます。「今の季節は、鍋の材料が、野菜は全部揃っていますよ」と、洋子さん。周囲もきれいに刈り込みをしているので、イノシシの棲家になるような藪もなく、イノシシの被害にあうことも無いそうです。
洋子さん「その代わりね、ハクビシンが来るの。ほら、これがハクビシン が食べたあと。あの人たちはおりこうさんで、一つ一つとって食べて、皮を全部ここへ捨てていったの。それから、子猿が出たこともあったわね。りんごや桃のシーズンになると群で出てくる」
畑では、野菜以外に、ブドウ、キウイ、クランベリーなどの果樹も。みんなしっかりと根を張っています。都会暮らしの頃、マンションのベランダで、プランターに植えていたことがあるというレモンの木も、ここでは、以前からこの土地に生えていたような立ち姿です。肥料がわりに撒いているというのは、お二人が召し上がったミカンの皮でした。
2023年の夏になると、宮城へ移住して丸20年がすぎたことになります。振り返っていかがでしょうか。
凱正さん「さっきも言ったけど、本当に地域の多くの人たちに助けられてここまでやってきたよね。震災の後だけではなく、普段から」
洋子さん「それもありますし、それに加えて、良い施設に巡り合えて、おばあちゃんをこちらで看取ることができたこと、それから、ラックとクーシーの二匹も、震災を乗り越えて、この自然豊かで落ち着いた環境の家で最後の日々を一緒に過ごすことができて、天寿を全うして看取ることができたこと。それは、本当に良かったと思います」
取材が終わって5ヶ月が過ぎた頃、サカモトのスタッフが山﨑さんのお宅を訪れると、デッキでは、モッコウバラが満開で、なんと言えない良い香りが漂っていました。冬の季節は、色彩もない景色の中でも、自然は生命を育み続けています。当たり前のことのような、その自然の摂理に、自然とともにある暮らしは、その「めぐり」を感受する心の豊さにあると、山﨑さんご夫妻の丘の家での暮らしは教えてくれます。
2021年1月取材
取材・文 簑田理香(もりのわ編集部)
写真 佐々木信也 最後の1枚:赤塚慶太(坂元植林の家/もりのわ編集部)