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花は、何故「美しく」、「良い香りがする」のか?

  • 投稿者[経営企画室 赤塚]
  • カテゴリ[その他]
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先日、とある農業者の方から、
「花は、何故『美しく』、『良い香りがする』か?」…という問いかけがありました。

みなさんは、なぜだと思いますか?

花にかかわらず、
何らかの対象に対する「美しい」「良い香りがする」という形容は、
その形容を当てた者の主観によるものにすぎず、
その美しさをまとい、良い香りを放つ当人にとっては、
彼らが彼ららしくその生を全うしているに過ぎないのではないだろうか。

…そんな風に思いました。

とはいえ、
・なぜそれらの「美しさ」や「良い香り」といった特徴が存在するのか。
・彼らの「美しさ」「良い香り」とは何か。
・それらが何に作用しているのか。
・それらはどのように生まれてきたのか。
…といったことを少し考えてみました。

花といわれると、
柴田町に住んでいる私としては、春の一目千本桜を思い起こし、
白石川沿いの桜並木を自転車で通り抜けて通勤するときにかすかな香りと、
空を埋め尽くす薄い桃色と空色のコントラストを思い浮かべます。

さらに視線をやや遠くに向ければ、蔵王が遠くに霞みなんとも絵画的で、
やはり道々には本格的な一眼レフと三脚を担いだおじさまや、
家族連れやカップルがこのコロナ禍とはいえにぎわう2021年の春でした。

コロナ禍でも、花の美しさや香りに惹かれた人々の行動はゼロにはできませんでしたね。

花を取り巻く生き物に目を向けると、
花が咲く時期にはミツバチが活動を始め、蜜を集め、同時に花粉を媒介します。
花の形や色は、その形状や色により、虫や小動物の目に留まり、子孫を残すために役立っています。

例えば、
蝶や蜂の視覚に認識されやすい色をしている花々があり、
形状によっては花粉を虫に運んでもらいやすくするなどの役に立っているようです。
また、香りも同様に昆虫をおびき寄せて花粉や種子を運んでもらうことに役立っています。
逆に、形や色・香りによって天敵から逃れる作用も存在します。
秋になると黄色い花が目立つ「セイタカアワダチソウ」やヨモギ・ヒメジョオンなどは、
アレロパシー物質を分泌して、新たな植物の生育を抑えたり、種子発芽を抑制したりして、
他種の侵入を抑えています。
こうして反映することが一つの生存戦略ですが、次第にアレロパシー物質によって自らの生育を阻害し、
地表や周囲の環境が変化してくると、ゆるやかに遷移が進んできます。


(川辺でセイタカアワダチソウの群れがススキの群れとまじりあい遷移している様子)

このように、花は、その進化の過程で、生存戦略として様々な特徴を身に着け
(というか、虫やその周囲の環境要因などその生存戦略上重要な何かに適した特性が子孫に引き継がれ)、
結果として、それを人間が「美しい」とか「良い香りだ」といって認識できています。

これが、『花は、何故「美しく」、「良い香りがする」か』に対する回答のひとつではないでしょうか。
ですが、何か回答としては片手落ちのような感じがします。


そこで「花」から少し意識を離し、
「美しい」とはどういうことなのか、少し考えてみようと思いました。

以前、木の家づくりのセミナーで、
茨城県石岡市の八郷で19年にわたり自力建築を続ける岩崎駿介先生のお話しをうかがう機会がありました。
タイトルは、
「美」とは何か…美しいものを作り出すこと。
というものでした。
岩崎さんはお話の中で、「この地球に何かをつけ加えるなら、『醜いもの』は作ってはならない」と仰っていました。
この地球はもうすでに、醜いものを受け入れる余白はない。ということです。

この問題意識は、
小学校くらいから、酸性雨とかオゾンホールとか、
気候変動とかいうことを、学校でもテレビでも、
盛んに耳にしながら育ってきた世代にとっては、案外身近なものではないでしょうか。

殊に近頃は、グレタ・トゥンベリさんがノーベル賞にノミネートされたり、
NHKで「2030未来への分岐点」という番組が放送され、
2030年までに2010年比でCO2排出量を半減させないと、
北極圏のメタンガスや水銀などの温室効果の極めて高い物質が空気中に放出され、
2030年以降はそれ以上どんな取り組みをしても気候変動は止まらなくなってしまう…。
SDGs,サーキュラーエコノミー…
…などといったことが、ますます様々なメディアを通じて発信されているので、なおさらでしょう。

これからの時代を生き延びる私たちにとっては、
美と環境問題とは、実は密接な関係であり、大事な考え方だと思います。

そんな時代の建築とはどうあるべきか、ということを考えた時に、
坂元植林の家では、パーマカルチャーという考え方をヒントにしています。
※パーマカルチャーについての記事はコチラを参照
「めぐるめぐみ」と「パーマカルチャー」と「コンポスト」))
そのパーマカルチャーにもたびたび「美」は登場します。

パーマカルチャーでは、
美という言葉の意味を、ビジュアル、見た目に限らず、
システムや社会、調和、循環、物と物、モノと人、あらゆる関係…
様々なことに「美」を見出します。

先に述べた、花と周囲の生命との関係は、美しい関係といえるのではないでしょうか。
実に無駄がなく、アレロパシーのように時に誰かを遠ざけることがあっても、
いつか生態系の環のなかで適切に処理され、また巡り巡っていきます。

現代の人間社会では、
常に「ゴミ」という廃棄物をなんとか処理しないとまわらないシステムになっていますが、生態系にはゴミが存在しません。
動物の排泄物も死骸も、植物が枯れた跡の残滓も、すべてが分解され循環していきます。

では、美しくないものは?
醜いものは、循環することができません。
どこかに付けを回し、どこかにしわ寄せがいきます。いつか、破綻が訪れます。
一見、自分がその付けを、対価を払っていないように思えたとしても、
未来の子どもたちや、よその国の誰かや、税金、環境汚染など、さまざまな形で自分に返ってきています。

例えば、
石油資源。核燃料となるウラン。
石油からできるプラスチック。
「安い」「うまい」「早い」とおもって使い込んでいるうちに、
地球はどうやら取り返しのつかない事になってしまっているのかもしれません。


これは日本の人口推移予測ですが、
2100年ごろの日本は、1850年ごろの人口水準にまで遡るといわれています。
つまり、現在1億2千万人ほどの日本の人口が、
2100年ごろには1850年ごろの推定人口3000万人程度まで減少する可能性があるということ。
1850年ごろといえば、明治維新の前、江戸時代末期。

江戸時代の日本の社会はいまより美しかったという話を聞いたことがあります。

江戸ではあまり廃棄物がなかったというし(あらゆるものをリサイクルした)、
戦国時代と呼ぶほどに争いを繰り返していた当時の人々が、
江戸時代に入ってすっかり争いを減らしたのだから、
比較的美しく穏やかだったと考えることができる。
という話でした。
(もちろん飢饉や被差別部落など、醜いものも存在した、ということも事実としてあると思いますが…)。

当時の建築を振り返っても、
江戸末期に作られた民家は全てが土にかえる素材で作られ、
材料は建物が解体されても別の建物に使われ、痛みがひどければ挽き割って板として用い、
最後には薪になり、その灰は畑にまかれ作物の養分となりました。

美しいものは、美しい社会・時代から産まれるのかもしれません。

150年前の明治維新をスタート地点に、
150年かけて急拡大、膨張を続けてきた日本の社会は、
2012年の人口をピークに急激にしぼんでいき、
2100年には江戸時代の規模まで縮小する可能性がある…ということです。

日本の国土のキャパシティに対して、
正常な規模にめがけて急速に社会規模が収束するという話のようです。

そんな急激な変化のさなか、いったいどんな困難が私たちの子どもや孫の世代に待っているのでしょうか。


自然の生態系のように、美しく循環していくものと、
人が産みだしてきてしまった醜さ。

対比して考えてしまいそうになりますが、
人間も本来は自然の一部のはずです。

人間の中にある自然や循環に改めて目を向け、
それぞれの「美しさ」を取り戻すことが、これからの時代では重要になってくるのだと思います。

パーマカルチャーでは、
人間が介在することによって自然がより豊かになるデザインを考えます。
人間本来の感性や技能・特性を生かす、百姓たることで、
地球も、自然も、すべてが持続可能でより豊かな世界が実現するのかもしれません。

百姓という言葉を使いましたが、
パーマカルチャーでは百一姓(ひゃくいっしょう)という人間についての言葉が使われます。
人間だれしも百姓であり一姓(いっしょう)でもあるという。

百姓とは、自らが生きるために必要なことすべてができる人、という意味があり、
一姓とは、人間一人一人が持つその人にしかない力、のことだそうです。

これが、自然としての人間本来のあり方なのだそうです。
なにか、花はなぜ美しいか?という最初の問いにつながる気がしてきます。

自然の最大の特徴は、無駄がないこと。
自然界ではゴミというものが存在せず、すべてはすべてのために必要な存在。

花も、自然全体の循環・調和の一部として機能し、
花はそれだけで存在するのではなく、花の周囲のすべてのために必要な存在。
それが美しいのではないだろうか。

パーマカルチャーでは、
自然には人も欠かすことのできない存在だといいます。
人が持つ様々な特性、能力にも一切の無駄はないとも。
人が人それぞれに与えられた能力をすべて生かしきることで、
自然は本来の循環を保ち、さらに豊かさや多様性、強靭さを増していく。


(藤野里山長屋にて)

このように、花だけでなく、人間も、
自然全体の循環・調和の一部として機能し、
人間だけで生きていけるのではなく、人間自身は周囲のすべてのおかげで生きることができ、
同時に周囲のすべてにとっても、人間は必要な存在。
そうあることができれば、「美しい」ということができそうです。

花は、花だけで美しいのではなく、その周囲のすべてとつながり、
すべてがすべてに必要であるその一部であるから美しい。

風の谷のナウシカの原作コミックスで、
主人公のナウシカが「こんなに世界は美しいのに こんなに世界は輝いているのに……」
…と嘆く有名なシーンがあります。

この言葉の後には「なぜ人はこんなに愚かなのか」とでも続きそうですが、
やはり、人も自然の一部であり、自然に欠かせない存在なのだと信じ、
それぞれが美しくあろうとすることが大事なのではないでしょうか。

『花は、何故「美しく」、「良い香りがする」か?』…という問いに、
ここまでの文脈を踏まえて答えるとするなら、

花が美しく、良い香りがするのは、
花だけのことではなく、
その周囲のすべてとつながり、
花がその一部であるから美しい。

と答えたいと思います。

問いかけの主は、ボンディファームの鹿股さんでした。
Facebookのボンディファームさんのリンク
ボンディファームさんのウェブサイト

美についてのお話をしてくれた岩崎駿介先生は、5/22にも無料のオンライン講演を行うそうですので、
ご関心のある方はぜひお申し込みを。(岩崎駿介先生の講演申込フォーム
申込は5/8まででしたが、後日youtubeで公開されるそうです。

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